臨済宗南禅寺派 飯盛山 青苔禅寺(はんせいざん せいたいじ)

飯盛山 青苔禅寺

TEL.0554(62)3198 FAX.0554(62)3182 〒409-0114 山梨県上野原市鶴島611
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本堂(八十坪、間口十間、奥行八間)

 

平成8年4月7日に前南禅寺僧堂師家、古清軒老大師導師の下、落慶法要を厳修させて頂きました。山号額の「飯盛山青苔禅寺」は古清軒老大師より揮毫を頂戴致しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

本尊さま(薬師瑠璃光如来)

 

本尊さま青苔寺のご本尊さまは「薬師瑠璃光如来」さまです。 境内地の灯篭や石塔に定朝作薬師如来と誌されていますが、現存の御本尊様は古いものですが別物です。
「甲斐国志」「甲斐国社記・寺記」「北都留郡誌」によれば、ご本尊さまは阿弥陀如来になっています。現存するご本尊、「薬師瑠璃光如来さま」は落雷による火災焼失後に、寄進或いは、どこからか、持ってこられたものと推測されます。
薬師瑠璃光如来さまの脇侍(きょうじ)は左に日光菩薩、右に月光菩薩、その回りに十二神将「宮毘羅(くびら)、伐祈羅(ばさら)、迷企羅(めきら)、安底 羅(あんてら)、額爾羅(あんにら)、珊底羅(さんてら)、因陀羅(いんだら)、波夷羅(はいら)、摩虎羅(まにら)、真達羅(しんだら)、招杜羅(しゃ とら)、比羯羅(ぴから)が位置し、如来さま、脇侍を取り囲んでいます。

 

襖絵8面 『浄鏡四時山水図・・・作(1988年)行近壯人』

襖絵8面『浄鏡四時山水図

 

日本画家、行近壯人先生のお心を込めて書かれた襖絵が奉納されました。
東京国際美術館で開かれた先生の古典にも出品され、多くの方々が見学に訪れるようになりました。先生のこの大作を大切に守っていきたいと思います。

 

作家コメント

「今回の襖絵については、一連の研究作と離れて、寺院の襖としての意義に重点を置いた。即ち日本国土の浄化された風景を四季山水に森こみ、その究極に蓬莱山を置いて浄土・真理の世界をイメージし、穢土の中に真実土を願う佛教世界の雰囲気 を意企し、且つ中央須弥檀を荘厳する佛画でもありたく考えた。扨、このように研究の枠外とは思ったが、仕上げてみると自分の画業のなかで理念を煎じつめる 為の、重要な体験だったと自覚できた。又、寺社への揮毫は大きな本懐である。」

 

今の日本は国家として最低だが、日本画は何人かの少数精鋭と小数卓見の言論人によって、たくましく花ひらく。これは平和のせいでもなく、師伝にも頼らず、むしろ「澱」のような平和の毒素症状、その危機意識と感性の揺れ、又この民族を流れる血液の抑えきれない迸りか... ―――行近壯人

 

 

ご開山さま 勅諡法光圓融禅師(ほうこうえんゆうぜんじ)

 

『ご開山さま』の青苔寺での記録等は落雷による火災での消失、また永年の無住により残念ながら残っていません。

 

しかしながら関東広域に渡る数多くの寺院を建立された実績から、『ご開山さま』の「行録」(あんろく)などで知ることができます。


『ご開山さま』は、諱(いみな)を「令山」(れいざん)といい、号を「峻翁」(しゅんのう)と申しました。康永3年(1344)7月17日、牛の刻に埼玉県秩父でお生まれになりました。幼少の頃のこんなお話が伝えられています。

 

『ご開山さま』5歳の時のある晩の事、隣の家の老婆が『ご開山さま』のたもとに明珠の納まるの夢をみました。あくる朝、驚いた老婆はこの不思議な夢の話を『ご開山さま』の母に申し上げました。

 

明珠は仏性、真如の象徴であります。母はこの奇妙な話を聞くと感慨深げに、「では、この子は将来きっと仏法の明珠を手に入れ、世の人々に施すような人になってくれるに違いありません。」と云われたという事であります。

 

この逸話のほかに幼少の頃の事は知ることが出来ませんが、幼い頃から俗世のことを厭い、いつも仏門に入ることを求めていたと「本朝高僧伝」に記されています。


やがて14歳の頃、親元を離れて秩父に名の聞こえた『了機道人さま』(りょうきどうじん)という人を訪ね、師事することになりました。こうして水を汲み、薪を拾い、師のお世話をする山居修行の生活が始まりました。円分4年(1359)16歳の時、『了機道人さま』に連れられて比叡山延暦寺に登り、正式に出家得度されました。康安元年(1361)18歳に比叡山を出られ、上野の長楽寺にいかれます。

 

応安元年(1368)25歳の時に長楽寺を出られ中国に渡ろうと旅に出ますが、現在の神奈川県愛甲郡清川村煤ヶ谷に、とても徳のたかい『抜隊得勝』(ばっすいとくしょう)という和尚さまがおられることを耳にして、訪ねることになりました。中国に渡り、真の師を求めようと、故郷を後にしたばかりの禅師は、ここで生涯の師となる『抜隊得勝』和尚さまに出会ったのです。
『抜隊得勝』和尚さまのところで、日夜おくことなく修行に専念されていました『ご開山さま』は、ついに26歳の座禅をされていた時に、はからずとも居眠りをしてしまい、「ハッ」として起きようとしたその時、一切の思慮分別を絶して、肉身と精神の束縛から完全に脱却し、真空現前すること忽然として悟られた、と伝えられています。


師『抜隊得勝』禅師さまは、世寿61歳に山梨塩山の向嶽寺で示寂されました。康応元年(1389)7月30日「抜隊得勝」禅師さまの遺命もあり、「ご開山」さまは向嶽寺に住持することになりました。

 

その後、22年間に渡り、5度に渡り向嶽寺に進住され、その傍ら幾多の寺院を開創されました。青苔寺もそのひとつに含まれています。

 

『ご開山さま』は、応永15年5月6日に示寂されます。
『ご開山さま』は塩山の向嶽寺と八王子の廣園寺を何度も行き来されていることや、 開山となっている寺院が塩山から大月、上野原、津久井の相模川支流沿いに何ヶ寺も存在する事を考えてみると、交通手段として渡船を利用されていたのかもしれません。

 

また青苔寺には開山塔も現存する為、向嶽寺と廣園寺の移動途中に青苔寺で示寂された可能性も否定はできません。